Vol.1 都民たちの戦場 ~東京大空襲~
米軍が記録した敗戦直後のカラー映像をベースに丹念に現地取材で検証。
1945年3月10日。アメリカ軍のB29の大編隊で深夜の東京に襲来。焼夷弾を雨と降らせた。戦闘員も非戦闘員もない無差別じゅうたん爆撃である。深川を中心とする東京下町は焼け野原となった。そのとき火の雨をかいくぐって命からがら逃げのびた作家の早乙女勝元さんは、恐怖の一夜が明けて隅田川を埋めつくした死体を見た。「勝元、よく見ておけ。これが戦争だ」と言ったその時の父の言葉が忘れられない、と語る。
東京は敗戦までに実に130回もの爆撃を受けて壊滅。そして8月15日、敗戦を迎えた。9月になるとアメリカ軍の進駐が始まりマッカーサーが焼け残ったアメリカ大使館に占領の旗をたてた。戦後の日本がスタートした。焼け跡のバラックに暮らす人々の瓦礫の山の片付けが始まり、人々は配給に列をつくる。
破壊的打撃を受けた東京の姿が戦争というものの恐ろしさ、むなしさを雄弁に物語る。
映像資料:米国立公文書館
監修・お話:作家・東京空襲を記録する会 早乙女 勝元
ナレーター:玉井 孝
協力:東京消防庁・消防博物館・京浜急行電鉄株式会社・東京交通局・大阪交通科学博物館
■文部科学省選定ビデオ
■内容85分(DVD)
■販売価格 3,000円(送料+税別)
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Vol.2 壊滅した商都 ~大阪大空襲~
太平洋戦争末期、大阪は超空の要塞と呼ばれたアメリカの爆撃機B-29の爆撃によって壊滅した。爆撃は1944年12月19日から敗戦前日の’45年8月14日まで50数回に及び、100機以上の大規模な空襲は8回にのぼった。翌1946年米戦略爆撃調査団が写し出した大阪は当時の状況をよく物語っている。大阪駅から難波の高島屋まで見通せる一面の焼け野原、繁華街の心斎橋、ビジネス街の船場、本町も瓦礫の山。御堂筋から大阪城まで土蔵のみ残る光景は異様である。阪急、そごう、大丸といった百貨店、迷彩色を施した大阪ガスビルが、かろうじて現在の姿を残している。一方、当時の市民は見ることが禁じられていた陸軍造兵廠。今は大阪城公園、ビジネスパークに変身したが、広大な土地にその無残な姿をさらしている。
映像は大空襲の跡をたどりながら、戦後の復興の姿も映し出す貴重な記録となっている。
映像資料:米国立公文書館
監修・お話:関西大学教授 小山 仁示
ナレーター:玉井 孝
協力:東大阪短期大学教授・伊勢戸 佐一郎・大阪国際平和センター
■内容47分(DVD)
■販売価格 3,000円(送料+税別)
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Vol.3 ヒロシマが消えた日 人類最大のあやまち・原爆
1945年8月6日午前8時15分。アメリカの爆撃機エノラゲイは広島に一発の原子爆弾を投下した。当時日本の敗戦は色濃く東京をはじめ大都市、中小都市は連続の爆撃で焼け跡と化していた。 しかし広島は8月6日まで新型爆弾の実験地として温存されていたのである。
原爆の炸裂によって爆心地から2キロ以内の建物は全壊全焼、時計の針は8時15分を指したまま止まった。人も建物も瞬時に爆風に吹き飛ばされ熱線に焼かれた。3,000℃を越える熱線は住友銀行の石段や万代橋などに人や車の影を焼き付けた。米戦略爆撃調査団は、こうした当時の状況を7か月後克明に映像に収めた。 人類がこれまで経験したことのない惨害。放射能の後遺症は、被爆者を半世紀たった今も苦しめている。今日20倍の核兵器を持つ世界にあって、被爆者の証言を織り込んでの広島の検証は、一層重要性を増している。
映像資料:米国立公文書館
監修・お話:元広島平和記念資料館長 高橋 昭博
ナレーター:玉井 孝
協力:広島平和文化センター
■内容77分(DVD)
■販売価格 3,000円(送料+税別)
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Vol.4 引き裂かれた長崎 人類最大のあやまち・原爆
1945年8月9日午前11時02分。広島に次ぐ史上2番目の原子爆弾が長崎に投下された。高度9,600メートルから投下されたプルトニウム爆弾は浦上地区の上空500メートルで炸裂した。その瞬間3,000℃から4,000℃にも及ぶ強烈な熱線と1平方メートル当たり10トンにものぼる爆風が地上のすべてに襲いかかった。爆心地では0.2秒から0.3秒の間に建物、人間が焼き尽くされたという。米戦略爆撃調査団は敗戦の年の11月、長崎原爆の“効果”を調査している。空から見た長崎はまさしく死の街。巨大なハンマーで叩き潰したような小学校の鉄筋のコンクリートの校舎。アメ細工のようにひしゃげた工場の鉄骨の屋根。恐るべき原爆の破壊力である。被爆した人々の傷を調査のカメラがなめるように映し出す。その中の何人かが存命していた。ケロイドと後遺症に苦しむ生き証人たちの言葉と廃虚の映像が、核兵器の根絶を世界に訴えかける。
映像資料:米国立公文書館
監修・お話:長崎原爆被災者協議会事務局長 山田 拓民
ナレーター:玉井 孝
協力:長崎原爆被災者協議会
■内容75分(DVD)
■販売価格 3,000円(送料+税別)
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Vol.5 米軍を迎えたヨコハマ
米軍の日本占領は横浜から始まる。
連合軍最高司令官マッカーサー元帥は1945年8月30日厚木に降り立ち、横浜に入った。
横浜市はこの年の5月29日、B29の猛烈な空襲によって壊滅状態となっていたが、港湾施設と港周辺のビルなどはほとんど無傷で残っていた。それらは全て占領軍によって接収され占領の拠点になった。そのため横浜の戦後復興は大幅に遅れたという。
しかし米軍を迎えた横浜の表情は意外に明るい。外国人とは昔から馴染み深かったハマっ子たちは、敗戦も「これで昔のハマに戻れる」と受け止めていたと斉藤秀夫さんは言う。そんな横浜の人々の表情と生活を米軍の撮影班は克明に記録している。モノクロフィルムだが、敗戦後わずか2週間という生々しい貴重な映像である。
映像資料:米国立公文書館
お話:横浜の空襲を記録する会事務局長 斉藤 秀夫
ナレーター:玉井 孝
協力:横浜の空襲を記録する会
■内容47分(DVD)
■販売価格 3,000円(送料+税別)
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Vol.6 ガレキの港町・神戸
神戸は1945年、東京、名古屋、大阪に続くB29による大都市への大量無差別絨毯爆撃によって灰塵に帰した。中でも神戸の被害率は最も高く、53万人が罹災。
映像は3月17日神戸の西半分が全焼した地域を神戸タワーの上から360度のパンで映し出す。一面の焼け野原は戦争と前年の凶作で未曾有の食料難であったために、ビル街も繁華街も畑と化している。
また6月5日の空襲で東半分が壊滅した三ノ宮、海岸通りもガレキの山である。畳1枚に10発もの焼夷弾が突き刺さった。当時中学生で神戸に住んでいた作家の野坂昭如氏は「火の海の中で目の前に雨後の筍のごとく焼夷弾がずらりと落ち、不発でなければ死んでいただろう」と語る。
戦争中、神戸は重要な軍需産業や工業地帯を持ち、飛行機や軍艦を製造していた。明石、鳴尾、尼崎の工場の残骸も無残である。
映像資料:米国立公文書館
お話:作家 野坂 昭如
ナレーター:玉井 孝
協力:神戸空襲を記録する会
■内容47分(DVD)
■販売価格 3,000円(送料+税別)
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Vol.7 京都にもあった戦後
日本の大都市が灰塵に帰した中で、京都は唯一戦災を免れた都市である。しかし、軽微だったとはいえ空襲は受けている。烏丸通りに防空壕が並び、五条、堀川、御池通りでは建物疎開が行われた。
この京都は原爆投下の候補地であった。対象から外されたのは、ポツダムに原爆実験成功の報告があった1945年7月、スチムソン陸軍長官が命令を下したからだとされる。
この映像が撮影されたのは1946年。敗戦から9ヵ月後とは思えない華やかさがある。車折神社の三船祭や上御霊神社の御霊祭が復活し、多くの修学旅行生が訪れている。調査団は意識的に日本の伝統的なものを写しており、「ノーモア・キョウト」とはならなかった平和の喜びが伝わってくる。
一方府下には、舞鶴軍港もあり、多くの被害を受けた。機雷で沈没した船の中に今なお謎を秘める事件の浮島丸が写っている。
そして夫や息子を求めて佇んだ「岸壁の母」の桟橋にソビエトからの引き揚げの復員兵の姿がある。食料難と共に京都にも戦後があったのである。
映像資料:米国立公文書館
お話:戦争戦跡に平和を学ぶ京都の会事務局 池田 一郎
ナレーター:玉井 孝
■内容47分(DVD)
■販売価格 3,000円(送料+税別)
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Vol.8 本土最前線・九州
東洋一といわれる製鉄所や航空工廠があった九州への米軍の空爆は猛烈だった。
1944年6月16日、まだ米軍が南方に基地を持つ前、九州はB-29による戦略爆撃を受けた。発進基地は、中国の成都であった。はじめて、超空の要塞B-29の存在に、日本中が驚いた。
日本のどこよりも早く軍需産業の拠点を攻撃した米軍は、1945年に入って沖縄作戦を支援するため、特攻の基地である飛行場を狙う。「カミカゼ」と恐れられた特攻隊員たちの基地である。人間爆弾となって飛び立って行く先輩を見送った鎌田定夫さんの話は、切実に戦争の残酷さを思わせる。
やがて九州全土にわたって住宅地が焼かれて行く。人々の戦意を失わせるのが目的だった。そして長崎への原爆、敗戦。
これらの映像群の中には、狂気の戦いのあとの他に、炭鉱など市民の暮らしにもカメラの目が向いたものもある。
これらの空爆のあとを克明に記録した映像から、その経緯を探り、被災した人々の声なき声を読み取る。戦争が終わって安堵した人々の表情に、平和への誓いを新たにする。
映像資料:米国立公文書館
お話:長崎総合科学大学 鎌田 定夫
ナレーター:玉井 孝
協力:大牟田の空襲を記録する会・北九州空襲を記録する会・福岡市史編纂室・大分市教育委員会・別府市教育委員会・佐世保市教育委員会・鹿屋市教育委員会・21空廠慰霊塔奉賛会・大村市文化課
■内容47分(DVD)
■販売価格 3,000円(送料+税別)
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Vol.9 瀬戸内の戦場
1945年 4月沖縄に上陸した米軍は、圧倒的な制空権を持って、その背後の補給基地であった九州、瀬戸内からの支援を断ち切るために様々な形の空襲を行っている。
B-29ばかりではなく、艦載機も含めた空襲は、機雷投下なども含め、戦後に長く惨禍を残した。
瀬戸内海の空襲の中心は、何といっても連合艦隊の中枢があった呉。映像には、半ば沈没した戦艦「日向」「伊勢」、横転した航空母艦「天城」、人間魚雷「蛟龍」など無残な姿も映し出されている。
この海軍基地を支えるために、瀬戸内海沿岸には呉海軍工廠はじめ多くの軍需工場や石油基地があった。徳山、宇部、光、下松、岩国、水島、新居浜など、瀬戸内を取り巻く工業地帯に、調査団は足を運んでいる。また岡山、水島、高知、松山、今治の基地、工場、それに戦後の生活の断片も記録されているが、広島大竹港の引き揚げ風景や、松根油の製造状況など、日本人では撮ることが出来なかった、貴重な1946年当時の素顔が映し出されている。
映像資料:米国立公文書館
お話:呉戦災を記録する会 代表 朝倉 邦夫
ナレーター:玉井 孝
協力:宇部遺族会有志・岡山の戦災・遺跡を記録する市職員の会
■内容47分(DVD)
■販売価格 3,000円(送料+税別)
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Vol.10 オキナワの軌跡 ~33万島民の悲劇の記録~
日本で唯一、住民を巻き込んだ戦闘のあった沖縄戦。アメリカ軍は、1944年10月10日と1944年 3月23日の空襲に引き続き、まず慶良間列島を攻略。4 月1 日、バックナー司令官率いる第10軍は1400隻もの大艦隊で、沖縄本島に上陸した。
10万の日本軍沖縄守備兵力に対し、米軍は上陸補給合わせて54万人という大軍団であった。米軍はその日のうちに読谷飛行場と嘉手納飛行場を占拠。 4月 3日には本島を南北に分断して日本軍を北へ南へと追い詰める。
激しい戦闘の中で住民の集団自決という悲劇も起こった。そして、多くの難民となった人々の、収容所を転々とする戦後が始まる。
一方、戦闘に巻き込まれた人々は、日本軍とともに首里から摩文仁まで追い詰められ悲惨な最後を遂げる。少年や少女の学徒隊もいた。民間人の犠牲は10万人とも15万人ともいう。当時9 歳で軍国少年だった高宮城繁さんと当時19歳で義勇隊だった渡慶次ミツ子さんの壮絶な話は、映像の迫力を上回る。
1972年 5月15日、沖縄は日本に復帰した。しかし県民33万人の心の傷は、癒されていない。
映像資料:米国立公文書館
お話:沖縄国際大学教授 高宮城 繁, 義勇隊の一員(当時) 渡慶次ミツ子
監修:沖縄国際大学教授 石原 昌家, 沖縄国際大学教授 高宮城 繁
ナレーター:玉井 孝
■内容85分(DVD)
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